2008年6月2日月曜日

英語を学べばバカになる

薬師院仁志

著者の主張は、タイトルとは少し違っていて、「英語を学ばなければ、異文化交流できず、生きていけない・・・というのは妄想である」ということであろう。

教科書問題とか、憲法第九条改正とかで議論されているような問題を、「日本人の英語に対する感覚」で取りあげている。

日本人が真のインターナショナルな人間になるためには、この壁を超えなければならないだろうと感じさせられた。


英語に呪縛されるあまり、専門的な知識や技能を身につける機会を失い、外国といえばアメリカしか見えなくなり、言語文化の多様性から取り残され、バカの一つ覚えのように英語を振りかざして周囲から疎まれるようになったというのでは、悲劇であろう

「日本人の英語使いが、”英語検事”にでもなったつもりで、同胞の英語力の足りなさ、おかしさをあげつらう姿ほどおぞましいものはない」

私がここで訴えているのは、英語の無用性や不必要性ではない。英語は有用かもしれないし、必要かもしれない。そのことはまた別に考えよう。ただ、すくなくとも21世紀初頭の時点で、英語こそが世界共通語だと位置づけることには疑問が多いと指摘しているのである。

「日本の”企業戦士”たちが、世界の至る所で、現地語を学ぼうとしないことで、反日本的情緒を現地人の心の中にどんどん蓄積している」どこへ行っても英語で押し通し、相手が英語を解さなければ世界標準からの落ちこぼれを見るような目でバカにするのだから、嫌われて当然なのである

「ミシュラン」と「ザガット」
フランスのミシュラン:レストランの格付けは、選び抜かれた専門家によってなされている。一般人は、それを受信するだけである。
アメリカのザガット:一般読者の人気投票によってレストランの格付けが決められる。一般大衆の方が各自の好みを配信し、集まった支持の数で評価が決まるのである。
この2つの対照的な原則は、それぞれの民主主義のあり方を表している。
ヨーロッパ:上から下への再配分。上流階級が独占していた権力や富や知識や文化を、国民各層に分配してゆくこと。
アメリカ:エリートと素人の質的な差を認めない思想。あらかじめ存在するあらゆる差異は、無いものとして消し去らねばならないもの。

ヨーロッパでは、まず勉強し、知識を深めてから議論をしなければ意味がないと見なされる。だが、アメリカでの議論は、権威やエリートの存在を排除しようとする傾向を持つ。誰でもともかく自分の意見を述べましょうというわけである。

アメリカにおいて、国家は、市民に権利を与える主体ではない。むしろ、国家は、市民の権利を奪いかねない存在として捉えられているのである。
しかし、アメリカ型のコミュニティ主義は、決して世界標準ではない。

アメリカのソフト・パワー(コミュニティ主義)が世界の人々を引きつけ、英語が世界語になるなどという感覚は、アメリカのソフト・パワーに惹かれた藻にだけに通用するものでしかないのである。我々は、多様な言語を窓口に、多様な知識をもっと仕入れ、自分たちの進むべき道をよく考えなければならない。

教育に対するアメリカとフランスの考え方。
アメリカ:学生に対するアンケートによって、学生が授業の満足度を評価する。
フランス:授業の評価としては、視学官制度があり、専門家が学校や教師を評価する方式が確立している。

そもそも、語学が武器になる人間は、伝えるべき内容をすでに持っている人間だけである。

アメリカが他文化社会であるというのは、幻想に近い。その善し悪しは別として、アメリカは、サラダボールではなく、一貫してメルティングポットであり続けている。いったんメルティングポットで消毒され、規格化された多様性だけが、サラダボールの仲間入りできると言うべきであろう。

<グローバルな地球市民主義>なるものは、世界の人が同じようなメディアに接触し、同じような行動用意期や文化的習慣を共有し、世界を旅するごく少数のエリートにしか関係のないまやかしものであり、極端に言えば、<空港の地球市民主義>でしかないのである。


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