2009年2月2日月曜日

靖國論/小林やすのり

小泉首相は、村山談話を繰り返しているのだから、靖国に祀られた戦死者を、「我が国民を含め世界の人々に対して、大きな惨禍をもたらし、とりわけアジア近隣諸国に侵略して苦痛を強いた」人々だとしか認識していない。
「A級戦犯は戦争犯罪人であるという認識をしている」とも言っている。
勝者の報復のために行われた「東京裁判」によって発生した歴史観をそのまま受け入れているらしい。

敗者にも正義があることを、言葉のどこかに少しでもにおわせなければ、国のために死んだものは浮かばれないのではないか?

彼らは単に侵略者で犠牲者に過ぎないのか?

「日本政府は東京裁判については連合国に代わり刑を執行する責任を負っただけで、講和成立後も東京裁判の判決理由によって拘束されるなどと言うことはない。」

靖国神社は明治2年、明治天皇の「我が国のために尽くした人々の御霊は国自ら永久にお祀りすべきである。」との聖旨により御創建された。

そこに祀られている御霊は、幕末の嘉永6年の死没者までさかのぼる。
それが黒船来港の年だからである。

公に殉じたものを「村の守護神」として祀ることは、地域・民間から自発的に起こっていたのだ。
すでに民衆の心に根ざし、行われていた追悼の様式を国家が引き継いだのだ。

先祖崇拝という日本古来の民間習俗。
「家」では、子孫は祖先の御霊を厚く祀りそれを受け手は祖霊の志は子孫を護り続ける。
これと同じような関係が「村」という日本特有の中間共同体では、村を護る「氏神」と祀る「氏子」という形で存在する。
そして国に殉じた人々の御霊を祀る社が作られたとき、民衆は自然に氏子が氏神に対するような感情を持ちその神霊に拝し加護を祈った
靖国信仰はまさに日本の文化・伝統・習俗の上に成立したのである。

我々は、信仰の自由が完全に認められ、神道・仏教・キリスト教・ユダヤ教などいかなる宗教を信仰するものであろうと、国家のために死んだものは、すべて靖国神社に、その霊を祀られるようにすることを進言する。

国のために命を捧げた人たちの御霊を一つの神社に合祀し、国の守り神として国民全体で護るという発想は、日本文化の素晴らしい成果であり、この気持ちこそ宗教観の根底にあり、人類共通の感じでもある。
戦争の目的が何であれ、多くの国民が民族共同体のために、良心的に命を捧げた事実は動かせない。
彼らの行為を国民の誇りとし、後世に模範として伝えることである。
そうすることによって、英霊の犠牲は国民全体の神聖なる遺産となり、国民の道徳観も養成されるのである。

外国人でも異教徒でも敬虔な宗教観があれば理解できるかけがえのない日本人の精神的遺産。

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